保険
まだ起きていない不幸に、いま値段をつけて売る。この型は、規制に追い出されて生まれました。古代の海上貸付は、船が無事に着いたときだけ高い利息をつけて返す仕組みで、貸すことと危険を引き受けることが一つになっていました。ところが一二三六年、教皇グレゴリウス九世の教令が、これを高利貸しとして断罪します——「危険を引き受けたことの見返りに元本を超えて受け取る者は、高利貸しとみなされる」。貸付の形が使えなくなった商人たちは、二つの道へ分かれました。ひとつは利益を分け合うコンメンダ。もうひとつが、資金の貸し借りを切り離して「危険だけを引き受け、その対価を受け取る」形——つまり保険です。規制が、新しい商品を設計させました。もっとも広く引かれるのは一三四七年十月二十三日、ジェノヴァの船サンタ・クララ号の証書です。ただし一三四三年のピサ説もあり、現存する実物としては一三八四年のピサのものを挙げる資料もあって、「最初」の候補はいくつも並んでいます。次に変わったのは場所でした。一六八六年ごろ、ロンドンのタワー街に開いたエドワード・ロイドのコーヒーハウスに、船乗りと商人が集まります。船の情報が集まる場所に、船の危険を引き受ける人が集まった。ロイズは会社ではなく市場です——引き受けるのは個人で、しかも長く無限責任でした。この設計の重さは三百年後に出ます。石綿の賠償などが積み上がった一九八八年から九二年の損失で、三万四千人ほどの会員のうち千五百人が破産しました。そして最後に変わったのは、値段の決め方です。一六九三年、ハレー彗星のあのエドモンド・ハレーが、ブレスラウの死亡記録から生命表を作り、年金の値段を計算しました。勘で決めていた値段が、数字で決まるようになります。一七六二年のエクイタブルは、その計算にもとづいて年齢別の保険料を定めた最初の会社でした。
神話の訂正
ハンムラビ法典には「船が沈んだら借金は返さなくてよい」と書いてある
よく語られる話ですが、条文が見つかりません。商人と代理人の貸付を定めた第百条から百七条にも、船大工と船頭の責任を定めた第二百三十四条から二百四十条にも、その規定はありませんでした。後者はむしろ弁償の義務を課すほうです。ただしメソポタミアに「隊商が襲われたら債務が消える」という商慣行があったこと自体は、同時代の粘土板から確かめられています。慣行はあった。法典に書いてあった、が確かめられない——このずれが、いつのまにか埋まってしまった話です。