交子(紙幣)
北宋の四川で、重い鉄銭のかわりに紙の預り証が流通しはじめました。景徳年間(一〇〇四〜一〇〇七)に成都の富商十六戸が絹の紙に刷ったのが始まりで、一〇二三年に「益州交子務」が置かれて官営になります。このとき、準備金三十六万貫に対して発行は百二十六万貫。準備率は二割八分でした。お金そのものが「約束を売る」の子であることを、紙幣はいちばん分かりやすく教えてくれます。そして、約束を刷りすぎるとどうなるかも。一〇九三年以降の乱発と兌換の停止で交子は価値を落とし、南宋では会子が、モンゴルとの戦争のころには六億五千万貫という規模まで刷られました。元は会子を交鈔に交換させ、それも収まらず一二八七年に至元鈔を出し、十四世紀には価値がおよそ三分の一まで落ちています。ちなみにマルコ・ポーロは『東方見聞録』の一章を丸ごとこの紙のお金に充て、桑の木の皮から作られる様子を書き残しました。記述の起伏が少ない人だと言われるこの旅行者が、木の皮がお金になる場面には、はっきり驚いています。
神話の訂正
交子は、世界初の紙幣としてそのまま定着した
定着はしませんでした。乱発で価値を落とし、南宋では会子に、元では交鈔に、さらに至元鈔にと名前を変えながら、同じ失敗を四回くり返しています。「紙の約束は、刷りすぎると死ぬ」——この地図でいちばん高くついた実験でした。